大河ドラマ「真田丸」で注目☆幸村と兄・信之が敵対する理由とは

大河ドラマ「真田丸」で注目の
戦国武将・真田幸村の人生をまとめました。

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織田軍によって、真田の主君・武田家は滅亡

武田信玄亡き後、その勢いは急転直下。
跡取りの武田勝頼は、味方の裏切りを発端に追い詰められ、自害する。

わずか300人で敗走する真田軍は、
大河ドラマの内容とは異なり、織田と結んでいた北条軍1万に出くわしてピンチに。

そのときに、幸村のアイデアで隊300人を6つに分け、
四方から北条に襲い掛かったことから幸村の家紋は「六文銭」となる。
※真田家の家紋は、3種類あるらしい

大河真田丸で幸村あらすじ

また、三途の川を渡るあの世行きの舟に乗る船賃が六文と言われていたこともあり、
「真田軍はいつでも死ぬ覚悟で闘う」という強い意志の表れだったとも。

真田丸の幸村と兄何才

大河ドラマのスタート時の年齢設定は、
幸村15歳、兄16歳。

姉の松は、
ドラマでは新婚ながら夫の主君の裏切りによって引き裂かれた設定だが、
史実では息子をひとり産んでいる。

夫の小山田茂誠らは、主君(ドラマでは温水さん)の処罰以降、
難を逃れ、真田家を頼って逃げのびたとされる。

真田は織田味方するのか?
北条か、上杉か?
と幸村の父悩むシーンがあるが、そんな必要はないのである。
 
 

本能寺の変は、武田滅亡からわずか3カ月後に勃発!

真田家の心配もよそに、
京都では織田家に長年仕えてきた明智光秀の謀反が起こり、
これから栄華を極めようとしていた織田信長はあっさり死去。

武田信玄織田信長上杉

これに乗じて関東を牛耳る北条に、
真田家は従うこととなる。
 
 

北条と徳川の和睦により、幸村はまさかの人質生活に突入。

北条に味方していた真田だったが、
その際に上杉とは交戦状態となる。

だが、織田信長亡き後、
険悪だった北条と徳川が和睦し、
事態は一変。

なんと徳川家康が、
勝手に「真田の領地である沼田(群馬北部)を北条にあげる」
と約束してしまったのだ。

これに、幸村の父はブチ切れ。

とうとう家康に反旗を翻し、土地の明け渡しを拒否したのだ。

そうなると、
単体では戦えないのは目に見えている。

そこで、これまで戦ってきた上杉に対し、
同盟を持ちかけ、
息子の幸村を人質として差し出すこととなる。

幸村は、武田の人質としての生活から2年経たずして、
今度は上杉の人質になることに。
 
 
しかし。
父の武将としての才覚はすごかった。

家康の送りこんだ大軍を奇策で殲滅し、
「真田は強い」と世に知らしめる。

そして、その頃、
家康との派閥争いが激化していた羽柴秀吉に近づき、
互いの利の一致によって取り入ることに成功。

秀吉は、真田家の強力な後ろ盾となり、
ここで幸村は秀吉のもとで人質生活を送ることとなる。

武田⇒上杉⇒羽柴、とまたしても移動する幸村くん。
スピーディな展開ゆえに、このときまだ17歳。

真田上田城跡
(上田城跡/上田市HPより)
 
 

17歳の幸村、秀吉のもとで人質生活スタート。

人質生活、といっても、
秀吉のもとにはかなりの数の人質がいたため、
基本的には普通の暮らしが送れる。

幸村が23歳のときには、
秀吉は天下人となり、
真田も徳川も秀吉の配下となる。

幸村の兄・真田信之は嫁に徳川四天王の一人・本多忠勝の娘をもらい、
幸村自身は、
石田三成の親友・大谷吉継の娘を嫁にもらう。
※この時点で、秀吉が死ぬまであと8年しかない。
 
 

幸村の正室・側室について

幸村の正室・竹林院は、
大谷吉継の娘(姪ともいわれ詳細不明)。
※正室の産んだ子が、長男・真田幸昌。

幸村の側室は、少なくとも4人はいたとされている。

豊臣秀次(秀吉の甥)の娘である隆清院、
側室:堀田興重(真田家の家臣)の娘、
側室:高梨内記(真田家の家臣)の娘など。
 
 

なぜ、真田家は徳川派・石田派で分裂することになったのか?

秀吉没後、豊臣の勢力は衰えつつあり、
家康の権力は増すばかり。
西軍・石田三成、東軍・徳川家康の戦に発展した。

この頃、幸村は33歳。

父は、領地をめぐるごたごた以来、家康が嫌い。
でも兄は、
共に豊臣の家臣として働くうちに、
家康に才覚を認められて側近になるほどに親しくなっていた。
妻は、徳川家家臣の娘。

そして幸村はというと、
秀吉のもとで人質生活を送っていたので、
仲間は大半が豊臣方(石田三成派)。

しかも幸村の妻は、
光成の親友の娘や秀吉の甥の娘など。

困った困った、というわけで、
一族が全滅しないために、
父と幸村は西軍に、兄は東軍にそれぞれ味方することを選ぶ。
 
 

家康の息子・秀忠を、上田城で打ち負かす真田昌幸&幸村親子。

徳川の跡取り息子・秀忠(未来の二代目将軍)は、
かつて父・家康が撃沈した上田城を落すことにやっきになり、
関ケ原の半月前という急がないといけない時期にも関わらず、
執念で上田城攻めを行う。

しかし、真田昌幸の前に、
4万人の兵を持てど城を落とすことができない。

昌幸の目的は、まさに「関ケ原に秀忠4万を行かせないこと」だった。

秀忠は、
まんまと昌幸の作戦にハマり、
時間をたっぷり使わされる。

そして、昌幸は、
これまた作戦通りに降伏・開城。

秀忠は全力で関ヶ原へ向かったが、
途中の天候が最悪で、豪雨で馬の足が送れるわ、
利根川は洪水・氾濫寸前で渡れない。
関ヶ原の合戦に遅刻するどころか、
何と到着したのは合戦が終わって4日後。

後世に恥を残す、
大遅刻をやらかしてしまった。
 
 

せっかく作戦が成功したのに、石田三成が負けてしまった・・・

幸村の父は天才武将でありながらも、
関ヶ原の戦いの行方だけは天に嫌われたようだ。

上田城での秀忠足止め作戦が成功したにも関わらず、
なんと関ケ原では西軍が負けてしまった。

東軍の家康側についていた信之は、
「自分の命と父弟の命を引き換えに」と嘆願する。

家康の忠臣・本田忠勝さえも、
「真田を処罰するならば、殿と一戦交えることに」と言いだす始末。

折れた家康は、
幸村と昌幸を高野山のふもと・九度山へ幽閉する。
 
 
<<<真田幸村の人生【後半】は、近日中に公開>>>
 
 
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