千利休の切腹理由は?娘の側室拒否、茶会で侮辱など信念を曲げない茶人の心意気

大河ドラマ「黒田官兵衛」でも
茶人・千利休はたびたび登場しますが、
なんで切腹させられたんだっけ?

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歴史に詳しくない人も
千利休という茶人がいて
秀吉に切腹をさせられたということだけは
知っているのではないでしょうか。

そもそも茶人であること以外のことを良く知らない。

そこで千利休がどんな人物で
どんな風に切腹となったのかを調べてみました。

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まず、千利休は、堺の方に住んでいました。
堺は、織田信長の時代、
独立した「商人自治区」のようなもので
武将にもほいほいとなびかない一大勢力でした。
(長崎の出島の小さい版、のような地形で、
どこからでも入れる町ではなかった)

織田信長が
そんな堺を野放しにしておくわけがなく
金を収めよと手中にしました。

堺には3人の一流茶人がいて、
そのひとりが千利休(千 宗易/せんのそうえき)。

信長と千利休が
茶会を開いていた時代に
すでに千利休は50代。おじいちゃんですね。
 
 
信長亡きあとは、
天下人となった秀吉に引きたてられます。

秀吉は茶会が大好きでしたが
天下を治めたとき
茶器をあまり持っておらず
「茶器が欲しいぃぃぃぃ!
利休、なんとか素敵な茶器を集めて!!!」と命じて
目利きで有名だった千利休がいろんな茶器を集めます。

ここまではおそらく
ただの茶人と武将の関係だったのですが

秀吉が
利休の娘が美人だったから
側室にしたいと言ったことに対し
利休は
「娘を差し出して出世したと思われたくない」と
断ります。
そもそも娘は
高山右近に片思いしていて
直接秀吉に嫌だと言ったとか。

その時は
おとがめなしだったのですが、
秀吉は根に持っていたということ。

それからしばらくは
茶会では必ず
千利休が秀吉を支える状態で
関係は悪くはなかった。

しかし。
秀吉が天下統一を果たし、
茶々が最初の息子を産んだ頃には
関係が急速に悪化。

そもそも利休は
シンプルisベスト、
質素の中にあるさりげない美しさを重んじるタイプ。

秀吉は
黄金の茶室をつくるほどの
派手好き。

溝はどんどん深まります。

さらに秀吉は傲慢。
堺の力を削ごうと
町の外堀を全部埋めて
ただの街にしてしまいました。
利休は堺の人間で
仲間をないがしろにした
秀吉に怒り心頭。

それだけでなく
北条攻めの際には
千利休の愛弟子を
無礼だと即日処刑。

怒りがつもった利休は
正月の茶会で
秀吉が嫌いな黒い茶器をだす。

そこからは急展開。
2月上旬、堺への自宅謹慎を言いつけられる
2月末、切腹ののち、首をさらされる

69歳の生涯となりました。
 
 
例え殺されようがなんだろうが
自分の考えを曲げず
秀吉に命ごいも謝罪もしなかった千利休。

天下人となりすべてを手にした
秀吉にさえ
人の気持ちや誇りは奪えなかったということでしょうか。
 
 
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